身体が放つ存在感や緊張感を、映像はどう伝え得るのか ──EPAD作品データベース・作品紹介|折田侑駿(文筆家)
舞台公演映像は権利処理を行うことで、配信や上映での活用が可能となります。EPADは収集活動と並行して、これまで多数の権利処理サポートをしてきました。複数カメラでの編集映像または8Kカメラを使用した高精細定点映像と、大きく2種類の映像を収蔵しており、どちらもその特徴を活かす形で上映会等での活用も支援しています(公開サポート作品数:800以上、上映可能な作品数:そのうち100以上)。
「読みもの」では、さまざまに視点を定めながらそれらの作品を紹介していきます。
今回は、上映に向けて権利処理サポートした作品の中から、文筆家の折田侑駿さんに、身体表現に特化した5作品を選定いただきました。
はじめに
舞台芸術作品というのは、生で観るにかぎる。そこで語られる物語や、声高に叫ばれる(あるいは小さな声で囁かれる)メッセージ、掲げられたテーマに触れるのだけが目的ならば、作品と出会う方法はなんだっていいのかもしれない。記録映像でもかまわない。しかし、映画や絵画、写真、建築、詩や小説などといったほかの芸術と舞台芸術が異なる最大のポイントは、鑑賞者の目の前に、作品の一部となる者の身体があること。当たり前の話ではあるが、この大前提に触れないわけにはいかない。人間の身体というものに魅せられてやまない私にとって、この身体が作品の一部としてどう機能しているのかが重要だ。そこに身体があることで、作品が放つメッセージや有するテーマが強固になり、メッセージやテーマとの関係性の中で、人間の身体はよりいっそう際立つ。ここにこそ、舞台芸術の醍醐味がある。そう考え続けてきた。
しかし2020年代以降、この考え方にもいくらか変化が生じた。コロナ禍の影響だ。ライブ空間において、作り手たちはさまざまな厳しい制約の下での上演を強いられ、やがて私たち観客はオンラインで作品を鑑賞できるようになった。映像での観劇なのだから、各作品が持つ舞台芸術としての本来の価値には、どうしたって触れることができない。けれども優れた作品には、たとえそれが映像であっても、人間の身体が感じられることに気がついた。前置きが長くなってしまったが、本稿ではEPAD作品データベースの上映可能な舞台公演映像から、身体表現に特化した5作品を選び、その魅力について綴っていきたい。
ホリプロ/『未来少年コナン』

これは宮崎駿監督による同名アニメーション作品を、はじめて舞台化したものだ。物語の舞台は、未来の地球のどこか。超磁力兵器の使用によって人類の文明が滅んでしまった、そのあとの世界だ。「のこされ島」で暮らす少年・コナンは、島に流れ着いた謎の少女のラナと出会う。そしてこれが、彼の運命を大きく動かすことになる。
主人公のコナンを演じる加藤清史郎、ラナを演じる影山優佳を中心に、多彩な顔ぶれによって本作の作品世界は成り立っている。演出を手がけるのは、インバル・ピントとダビッド・マンブッフ。ふたりのもとに超絶技巧派のダンサーたちが集い、強靭でしなやかな身体の動きで、さまざまなシーンを創出していく。たとえばそれは、深海の水圧や、砂漠で舞う砂ぼこりなどだ。インバルによる奇想天外な振付を体現するダンサーたちの存在なくして、この作品は成立しない。それくらい、人間の身体が重要な位置を占めている作品なのだ。
本作は複数のカメラによって収められている。舞台全体を捉えた引きの画では、『未来少年コナン』の世界をひとつの「絵」として楽しむことができる。イマジネーション豊かな空間演出と身体表現が、舞台上の空間そのものを生き物のように変える。これは実際に劇場で観劇する者が抱く感覚に近いものだと思う。そのうえ舞台上の演者たちをアップで映し出す際には、各キャラクターの発する感情の細部までが収められ、これを演じる俳優たちの表情の変化など、とても繊細な表現にも触れることができるのだ。劇場での体験とはまったく異なる鑑賞体験を、観客は得られることだろう。
アニメーションでも、実写でも到達できない、フィジカルシアターだからこそ創り上げることのできる『未来少年コナン』の世界がここにある。
<EPAD収蔵映像:複数カメラ編集映像>
チェルフィッチュ × 藤倉大 with アンサンブル・ノマド 『リビングルームのメタモルフォーシス』東京公演

東京公演 舞台写真 撮影:前澤秀登
作・演出を務める岡田利規と、作曲家の藤倉大のコラボレーションによって創り上げられた、新感覚の音楽劇である。不意の大雨により干していた毛布が濡れてしまったある日、とある一家は住んでいる家を追い出されそうになる。所有者側からの一方的な賃貸契約の破棄によってだ。やがて空間全体を不穏な空気が満たした頃、この一家のもとに人ならざる存在がやってくる──。
この作品は舞台上の空間設計が非常に独特だ。前方に位置するのは、アンサンブル・ノマドの演奏家たち。そして舞台後方の下手側に抽象的な「リビングルーム」が形成されており、ここが俳優たちにとっての基本的なアクティングエリアになっている。「演奏」と「演劇」は対等な関係にあり、どちらかのパフォーマンスが他方の添え物になることはない。並置されたそれぞれの空間は、ときに拮抗し、ときに侵食し合う。演奏家たちの身体と俳優たちの身体もまたそうである。それぞれ独立していて、影響を与え合うことを目的にはしていない。この劇空間を、定点カメラが捉えていく。
正直なことをいえば、決して観やすい作品ではない。本作は観客にとって容易に理解できるものではないし、作品そのものが安易な理解を拒んでいるようにも思える。私たち観客が理解し得る範疇にあるものではないのだ。そのうえ、据えられたカメラとこれが捉える対象(=演奏家/俳優)の間には大きな隔たりがある。小気味よく明快な物語が展開していくわけではないから、映像をとおして触れる際、人によってはとっつきづらいものに感じてしまうとも思う。
けれどもこの作品の魅力は、「演奏」と「演劇」が関係し合い、ときに化学反応をも起こす劇空間そのもの。俳優たちの言葉と身体、そして演奏家たちが奏でる音楽はやがて溶け合い、空間を変容させていく。この変容ぶりを認識するには、むしろ映像のほうが適しているかもしれない。
<EPAD収蔵映像:8K定点映像>
ニブロール/『悲劇のヒロイン』

劇作家・演出家・振付家の矢内原美邦が率いるニブロールが、東京芸術劇場の「芸劇dance」のプログラムのひとつとして発表した作品である。登場するのは、笠木泉、川田希、光瀬指絵、皆戸麻衣、望月めいりの5名の俳優が演じる、5人の「女優」たち。悲劇的な状況下にある彼女たちが、言葉と身体とで自らの不幸を語り上げていく。胆大心小なパフォーマンスで。
これは「ダンス」といえばたしかにそうだが、どちらかといえば「演劇」の要素のほうが強いと感じる。それは全編にわたってセリフがあるからであり、いかにもダンス然とした踊りが見られないからでもある。俳優たちが口にする悲劇的な言葉は、次から次へと悲劇性を帯びた言葉を呼び、それらと呼応するように個々の身体は躍動していく。誰もが自らの悲劇を嘆くが、その声には力があり、身体は生き生きとしている。そんな彼女たちの存在を、近づいたり、離れたりしながら、カメラが追いかけていくのだ。
5名の俳優の熱量が、5人の女優の叫びが、映像をとおして伝わってくる。すべてを余すことなく完璧に映像に収めることは不可能だろうが、画面越しだからといってその魅力が大きく損なわれるわけでもない。スカンク/SKANKが手がける音楽や、高橋啓祐の映像と美術とともに立ち上がっていく女たちの悲劇は、生身の人間が生み出すダイナミックな身体の動きによって現前する。画面をも超えて観る者に迫ってくるのだ。まさに身体というものが強く感じられる作品である。
彼女たちの一挙一動は、怒りに似た祈りであり、祈りにも似た怒りだ。クライマックスで女優たちがマッチで灯した火の香りを、あなたは嗅ぐことになる。そしてそれはいつまでも、消えてはくれないだろう。
<EPAD収蔵映像:複数カメラ編集映像>
穴迫信一 x 捩子ぴじん with テンテンコ/『スタンドバイミー』

撮影:脇田友 提供:KYOTO EXPERIMENT
劇団ブルーエゴナクの穴迫信一が劇作をし、ダンサーで振付家の捩子ぴじんとはじめて共同で演出を手がけた作品である。会場である京都の堀川御池ギャラリーは、比較的小規模の、なんでもないスペースだ。ここで、現代演劇と能、そしてテンテンコによる電子音楽とのコラボレーションが展開し、やがて不思議な世界が立ち上がっていく。物語の舞台は、大きな地震があり、たくさんの人が亡くなってしまった、とある地方都市である。
坂井遥香、なかむらさち、野村明里、米川幸リオンらが演じる登場人物たちは、誰もがすでに死んでいるらしい。そして死んでいるがゆえに、目的はないのだという。しかし、この者たちはたしかに存在している。そこには一人ひとりの実体がある。物語がはじまるなり彼ら彼女らはひたすらに歩き続け、この運動によって個々の身体は際立つ。けれども自分たちは死んでいるのだという宣言によって、生者と死者の境目が分からなくなってくる。これはその「あわい」の旅路を描く作品なのだ。
ここに能楽師の田中春奈の存在が加わることで、本作の世界観はより強固なものになっている。その「ゆっくり」とした身体の在り方は、劇空間の時間に変調をもたらす。生と死の境界はさらに曖昧なものになっていく。そこで私たちは死者の「語り」に向き合うこととなるのだ。
俳優たちの力みの抜けた発声は、脱力した身体を現前させ、特異な空間を創出し、演出する。あなたはこの空間に、時間に、目の前の身体に、なにを感じ、なにを見出すだろうか。
<EPAD収蔵映像:複数カメラ編集映像・8K定点映像>
合同会社kitaya505/『白/道』

舞踏カンパニー・山海塾の石井則仁、世界劇団などの舞台音楽も手がけるシタール奏者のムー・テンジン、OHP(オーバーヘッドプロジェクター)を用いた空間演出を行うサ々キDUB平らによるパフォーマンス作品。白一色で統一された空間の中にあるのは、白い衣類をまとったシタール奏者の姿と、白塗りの舞踏手の身体だけ。舞台上ではこのふたりの即興的な「演奏」と「踊り」が繰り広げられていく。
まず最初に暗闇の中で観客が知覚するのは、黄金色の光の存在。OHPから放たれるこの光が、舞台上で揺れ、動く。そしてそこへ音楽が、シタールの奏でる音が重なってくる。これがしばらく続く。ほんの束の間のことではあるのだが、途方もなく長い時間のようにも感じる。日常を過ごしているときの時間の感覚から解放され、自分の身体は客席にあるはずなのに、意識だけはとてつもなく遠いところへと連れて行かれる。これは舞台芸術の真髄ともいえるものだろう。そうした得難い体験をもたらすのが、この『白/道』なのだ。少しずつ舞台上が明るくなってくると、舞踏手である石井の存在があらわになる。
この映像は複数のカメラで、さまざまなアングルから作品を捉えている。カメラが射抜くのは「演奏」と「踊り」だけではない。OHPを使って光を「投射」するサ々キの手さばきも収めている。どのようにして舞台上の空間が、ひいては劇場という空間全体が彩られているのかを、鑑賞者は知ることができるのだ。
私たちが日常的に用いる言葉は、この作品には登場しない。けれども「演奏」と「踊り」と「投射」によって創り上げられる空間は、言葉を持たずとも雄弁である。この意識の旅を体験した者は、次作は劇場に行かずにはいられないだろう。
<EPAD収蔵映像:複数カメラ編集映像>
おわりに
ここに並べた5作品は、いずれも「身体」が重要な位置を占めている。『未来少年コナン』には高い強度の物語が存在しているが、ほかの作品では物語よりも身体こそに比重が置かれていたりする。「舞台芸術は生で観るにかぎる」と冒頭で述べたが、こうして映像で観てみて、その認識をいま改めつつある。たしかに、人間の生の身体の存在や、いまこの瞬間を生きる者が放つ緊張感は、同じ時と場を共有し合っているからこそ得られるものだ。けれども映像はこれらの一つひとつをカメラで捉え、「アーカイブ」として、ライブ空間での体験とはまた異なる出会いを鑑賞者にもたらしてくれる。舞台芸術作品が映像に収められることによって拡がる可能性だってある。そもそもこうして一回性の芸術が残されることに大変な意義があるのは言うまでもない。
執筆:折田侑駿(Yushun Orita)
1990年生まれ。ライター、文筆家。映画やパフォーミングアーツなど、さまざまなカルチャーについて執筆。“身体性”にフォーカスした文章を数多く手がけている。クイック・ジャパンにて、特定の作品を「窓」と捉えて社会を見つめる「割れた窓のむこうに」を連載中。
EPAD作品データベース
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