LOVE
2026.04.24

花道は劇場の外へ続く。外波山文明、路上と街に刻んだ演劇の記憶

舞台芸術のデジタルアーカイブに注力してきたEPAD。本連載「舞台のあしあと」では、舞台芸術にかかわる方々に、影響を受けた作品を振り返っていただきながら、舞台芸術をアーカイブすることの意義に迫ります。
 


 
新宿ゴールデン街は、言わずと知れた東京随一のディープスポット。人々が肩を寄せ合い、狭い店内で夜な夜な酒を酌み交わすこの街に、作務衣姿で颯爽と現れたのが俳優であり演出家の外波山文明さんです。「こんにちは」ニコニコとした柔らかな雰囲気なのに、ふっとどこか現実離れした気配が滲み出る……。
 
ゴールデン街で自身の店「クラクラ」を50年にわたって経営する彼は、1971年に「はみだし劇場」を旗揚げ。90年には椿組に名前を変え、アングラ演劇の伝統をいまに引き継いでいます。芝居を知らずに演劇の世界に飛び込み、これまでに影響を受けた作品は「ない」と語る外波山さん。歴史が積み重なったクラクラの店内で、60年にわたる彼の芝居人生と、アーカイブへの想いを伺いました。
 

「生き様」としてのアングラ演劇

2024年夏、ひとつの時代が終わった―
 
外波山さん率いる劇団「椿組」は、1985年から39年にわたって、毎年夏に新宿・花園神社でテント芝居を実施してきました。猛暑の中、冷房もないテントに大勢の観客が集結し、熱気と汗にまみれながら鑑賞する芝居は、演劇界のみならず新宿の夏の風物詩。しかし、1947年生まれの外波山さんをはじめとするスタッフの高齢化や、昨今の異常な暑さによる熱中症のリスクを考慮し、惜しまれつつもその幕を閉じたのです。
 

最後の野外演劇となった24年夏公演の『かなかぬち

 

花園神社のテント前での集合写真

 
1967年、寺山修司が劇団「天井桟敷」を設立し、劇作家の唐十郎が花園神社で初めてテント芝居を開催した年に、外波山文明さんは生まれ故郷である信州の南木曽から上京しました。当時は、アングラ演劇がもっとも熱かった時代。20歳の外波山さんは、劇団「変身」に所属しながら、蜷川幸雄、蟹江敬三、石橋蓮司らが設立した「現代人劇場」を手伝ったり、寺山の「毛皮のマリー」や唐十郎の「腰巻お仙」シリーズに触発されたりしていました。演劇のみならず、ジャズ、フォーク、映画、写真など、さまざまな文化が新宿で沸き立っていた時代です。
 
そもそも、年間100本もの映画を見て、将来は映画監督になりたいという志を秘めていた外波山青年。その情熱がアングラ演劇へと移っていったのはなぜでしょうか?
 
「アングラ演劇は、自分の生き様を見せるものだったんです。上手に演じたり、いい声でセリフを言うことが芝居じゃない。そこでは、ひとつの『個』としてどう存在しているかが重視されていた。『状況劇場』*にも、麿赤兒さん、小林薫さん、根津甚八さんなど強烈なキャラクターの俳優がいて、彼ら自身の肉体から言葉を発していましたよね。そんな生き様に惹かれたんです」
 
*状況劇場……1960〜80年代のアングラ演劇を牽引した唐十郎主宰の劇団
 

 
生き様をさらけ出す「役者」という稼業に魅了された外波山さんは、劇場で上演される芝居に飽き足らず、路上へと飛び出していきます。
 
「劇場にお客さんを呼ぶのではなく、役者が芝居をやれば、そこが劇場になる。当時は、寺山の市街劇をはじめとして、多くの人が路上へと飛び出していった時代でした。僕も1971年から『はみだし劇場』と名乗り、東北・大船渡の一軒家を拠点として、ゲリラで街頭劇を上演しました。投げ銭をもらいながら2ヶ月ほど、トラックで東北を回っていたんです」
 

椿組WEBサイト はみだし劇場 公演記録 より

 
そこで行われたのが『混乱出血鬼』という芝居。それは、こんなセリフからはじまります。
 
「お控ぇなすって! 手前、生国と発しますところは関東です。関東は東京、花のお江戸は隅田川……」
 
突然、白装束で隈取をした外波山さんが店先に現れて、こんな仁義(挨拶)を切る。すると、やくざ者たちの抗争がはじまり、大立ち回りが展開されます。そして、刺された外波山さんは、バケツいっぱいの血潮を撒き散らしながら絶命……。熱量の塊のような芝居を、ゲリラで上演し、投げ銭をもらいながら暮らしていました。
 
さらに、1973年に行った『外波山文明城24×25』では、福島・湯本の一軒家に寝泊まりをしながら、朝から晩まで25日間にわたって「芝居」を敢行! 食事をしているのも芝居だし、酒を酌み交わしているのも芝居、掃除をしているのも芝居。つまり「生きていること」そのものが芝居というコンセプトでした。
 
また、1975年に行った「シルクロード1万キロの詩・祭旅」では、ドイツで車を購入し、中東やアジア各地を5ヶ月にわたって路上劇を行いながら放浪。もう、芝居と人生との垣根は完全になくなっていたのです。
 

シルクロードにて、ラクダとの掛け合い( 椿組WEBサイト はみだし劇場 公演記録 より)

 
そんな破天荒な活動を行う当時の外波山さんを象徴するのが、神代辰巳監督によるロマンポルノ『濡れた欲情・特出し21人』に出演したときのエピソード。台本をめくった外波山さんはこんな文字を眼にします。
 
「普通の台本なら、役名が上にあり、下に役者の名前がありますよね。けれども、この台本では、役名が『外波山文明』、役者名も『外波山文明』だった。そこから、もう僕自体が芝居だと思うようになったんです」
 

 

記録は「酒の肴」から始まった

ぶっ飛んだエピソードに事欠かないアングラ演劇の世界の中でも、伝説として語り継がれる活動を展開していた外波山さん。しかしその活動は、意外なほど多くの映像に残されています。前述の『混乱出血鬼』も、NHKのディレクターであり、つげ義春原作の『紅い花』や『夢の島少女』『四季〜ユートピアノ〜』といったテレビドラマで知られる佐々木昭一郎さんが、芸術選奨新人賞を受賞したドラマ『さすらい』の中に収めています。
 
「このドラマは、身寄りのない少年が母を訪ねて旅をするというロードムービーで、フォークシンガーの友川カズキさんや遠藤賢司さんなんかも出演していました。佐々木さんは、人づてに僕らの存在を知り、主人公が僕らといっしょにトラックで旅をしている姿をフィルムに収めることを考えた。しかし僕らは東北を放浪しているから、どこにいるかわかりません。たまたま、青森県の大間で路上劇をやっていた僕らを発見し、ドラマに出演してほしいと言われたんです。
 
でも当時は僕らもカッコつけていたからね(苦笑)。『NHKのためになんか芝居はやらない』って突っぱねた。『けれども、路上でやっているのを撮影するのは構わない』って許可を出して、撮影されたのが『さすらい』に収められた映像です。だから、演出されていない、普段のままの路上劇が映っています。おまわりさんに職務質問されている姿もドキュメンタリーですよ」
 

 
外波山さん自身は「見た人の記憶に残ればいい」と考えていたため、当時、積極的に映像に残そうとは考えていなかったそうです。けれども、外波山さんの唯一無二の活動が、その場限りで終わってしまってはもったいない。そのため、佐々木さんだけでなく、アングラ映画の巨匠として知られる岡部道夫さんなど、周囲の人々が外波山さんの活動を映像に残すようになっていきました。
 
すると、だんだんと外波山さん自身も記録に残すことの魅力を実感するようになっていきます。ピンク映画に出演し、はじめて自分の背中を見たときのことは、いまだに深い印象に刻まれているそうです。
 
「いまは簡単に映像を撮影できますが、50年前は、自分の背中を見るチャンスはなかったんですよ。フィルムに収められた自分の背中を客観的な視点から見ていると、案外映像っていいもんだなって思ったんですよね」
 

 
そうして、フィルムの可能性に目覚めた外波山さん。前述の「シルクロード1万キロの詩・祭旅」は、8ミリカメラと30本のフィルムを携えての放浪となりました。8ミリフィルムでは録音ができないため、音声こそ記録されていないものの、そこにはタリバンによって破壊される前のバーミヤン遺跡の姿も収められています。
 
日本での公演も、1982年に新宿シアターモリエールで上演した「外波山文明ひとり芝居/飛行船とんだ」からはじまり、1984年に中野の空き地で上演した「松浦党志佐三郎の反乱」や、87年に栃木の大谷石採掘跡地や本牧の空き地で上演した立松和平作の「鬼の黄金伝説」など、ほとんどの公演を映像として記録しているそう。ただ当時の外波山さんには、活動を記録しアーカイブを残そうという気持ちは薄かった。その目的は、「酒の肴」という意味合いが大きかったとか……。
 
「自分たちでつくる映像は、ただの記録としての意味しかなかった。公開することも考えていなくて、打ち上げのときに、身内だけで楽しみながら飲めればよかったんです。
 
ただ、僕らは普通の劇場を使わずに、中野や本牧の空き地、大谷石の石切場だったり、テントのような誰もやっていない場所で芝居をやってきた。だから、こんなところでも芝居ができる、どこでも劇場になるっていうことを伝えたい気持ちはありましたね。そのため映像も、作品の記録というよりもドキュメンタリーとしての側面が強い。写真よりも映像のほうが、説得しやすいんです」
 
しかし、年を経るにつれて、映像に収める目的は徐々に変わっていきました。今では複数台のカメラを導入し、クオリティの高い映像を目指しているそうです。
 
「特に花園神社の公演は遠方で来場できない人もいるので、きちんと作品として残そうとしていましたね。とはいえ、そこに映っているのは、芝居とは別の『映像作品』です。DVDの販売やオンラインでの配信も行っていますが、生の舞台とは違うものとして位置づけています」
 

クラクラをいろどる、半世紀の記憶

外波山さんの半世紀以上にわたる芝居人生は、映像のほかにも、さまざまな「アーカイブ」を生み出してきました。たとえば、クラクラのなかにところ狭しと飾られているポスターも、貴重なアーカイブといえるでしょう。74年の公演『唄入り乱極道』からずっと、外波山さんのポスターは、日本を代表するイラストレーターである黒田征太郎さんが手がけています。
 
「70年代には、黒田さんとゴールデン街でよく飲み歩いてたから『ポスター描いてくれない?』ってお願いしたんです。そしたら、当時からすでに売れっ子だったのに、タダで引き受けてくれた。今後、僕がやる芝居のポスターは全部黒田さんが描くという約束で。それから50年以上、ずっとタダで描き続けてくれていますよ。
 
いちばんはじめに描いてもらった『唄入り乱極道』のポスターは、黒田さんのイラストで、題字は三国連太郎さんでした。しかも、当時はシルクスクリーンで印刷しているので、その意味でも貴重ですね」
 

クラクラ店内に飾られる歴代のポスター

 
黒田さんのほかにも、コメディアン・たこ八郎さんとの交遊録、歌人の俵万智さんがアルバイトをしていた時代のエピソード、松田優作さんや石橋蓮司さんらゴールデン街の仲間で撮影した映画の話……と、外波山さんの口からは、さまざまなエピソードが飛び出してきます。そういえば、以前、舞台芸術アーカイブの可能性を話し合うドーナツ・プロジェクト2024のシンポジウムで、外波山さんは「俺自身がアーカイブ」と宣言していました。形として残っている物だけでなく、過去の公演、人々との交流、街の風景など、その頭の中には、膨大な記憶がアーカイブとして蓄積されているのです。
 
そんな記憶は、外波山さんにとって、芝居の原点でもあります。
 
「子どものころから、夏祭りの境内で上演される村芝居が好きだったんですよ。ムシロの小屋を建てて、じいさんがパッと化粧を塗って、ヨタヨタしつつも見栄を切って芝居をしている。そこには火薬の匂いやおしろいの匂いがしてね。家に帰ったら『こんな芝居を見たよ』って話したり、昔見た芝居の記憶を引き出しながら『あの芝居はよかったね』って話す。そうやって、家族の団らんがつくられていたんです。まだテレビもなかった時代ですね」
 
膨大な記録は、豊穣な記憶を引き出します。たくさんのポスターや大入り袋といった記録が飾られたクラクラの店内でも、それらに触発されて、無数の思い出が語られる。閉店時間の24時まで、今夜もゴールデン街の片隅で、赤ら顔の人々がその記憶を語り継いでいくのです。
 

 
 
取材・執筆:萩原雄太
撮影:Hide Watanabe
編集:須藤翔、玉川玲央奈(株式会社Camp)